英語教育改革の目的は「生きる力」を伸ばすこと:大人たちの責任とは

全6回シリーズでお送りしてきた「全国学力調査(中3英語)の結果が暗示すること」シリーズでは、初めて実施された「全国学力調査(中3英語)」の結果を見る限り、現在進められている英語教育改革がなかなか思うような成果を引き出せておらず、また各種の調査結果からは、社会のグローバル化の進展と子どもたちの意識とに乖離が見られることなどを取り上げてきました。

このように課題点の多い英語教育改革ですが、 今後は何に意識を向けていけば良いのでしょうか 。

英語教育改革は、学校教育全体の改革の一部

現在進行している英語教育改革は、実は英語に限らない、学校教育全体の改革の一部として位置づけることができます。2012年6月に文部省が公表した「大学改革実行プラン」を端緒として、大学と小・中学校から始まった今回の学校教育改革は、2020年度から始まる「大学入学共通テスト」(現在の大学入学センター試験の後継試験)と、2022年度から学年進行で移行する高校の新しい学習指導要領で、すべての学校段階での改革がひとつの流れとなって完結します。

改革の目的は「生きる力」を伸ばすこと

今回の教育改革では、人口の減少と労働生産性の低迷、グローバル化・多極化が進むこれからの時代を生き抜ける力(「生きる力」)を育むことが最大の目的であり、そのためには以下の3点が課題となります。

①困難な課題に積極的に挑む「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度(主体性・多様性・協働性)」を養うこと

②その基盤となる「知識・技能を活用して、自ら課題を発見しその解決に向けて探究し、成果等を表現するために必要な思考力・判断力・表現力等の能力」を育むこと

③さらにその基礎となる「知識・技能」を習得させること

国際社会を主体的に生き抜くために

グローバル化の進展の中で、言語や文化が異なる人々と主体的に協働していくためには、国際共通語である英語の能力を、使える形で身に付けることが必要です。受け身で「読むこと」「聞くこと」ができるだけでなく、主体的に考えを表現することができるよう、「書くこと」「話すこと」も含めた4技能を総合的に育成・評価する英語教育が重要になります。さらに、英語のみならず、自国の伝統文化に関する深い理解、異文化への理解や躊躇せず交流する態度も求められます。

出典元:2014年12月 中央教育審議会答申「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について」より)

このように、従来重視されてきた「知識・技能の量」だけでなく、これからの教育では「主体性」が重要なキーワードとなります。主体性に関しては前回触れた学習に対するモチベーションが極めて重要となります。前回模式的に示した英語学習に対するモチベーションの関係を改めて以下に紹介します。

モチベーションの大きさ∝ f (学習経験の質)×f (英語学習の価値)×f (楽天度)×f (自信度)

モチベーションが上がらない本当の理由

「学習経験の質」や「学習プロセスに対する自信度」は、学校の授業や学習を改善することで向上することは可能です。しかし、「英語学習の価値」や「よい結果を見通す楽天度」は、社会観や人生観に関係してくるものです。それは、英語を学ぶこと、あるいは学習そのものが自分の将来とどのように関係してくるのかという見通しに関わるものであり、当然明るい未来への希望がなければ高まるものではありません。

前記の中教審答申もそうですが、最近日本では「こんなに厳しい世の中になるのだから、うかうかしていたら取り残されることになる。そうなりたくなければ、これだけ努力しろ」といった論調で将来が語られることが多いように思います。その背景には「不安」や「不信」があります。もちろん、現実は無視できませんが、教育が不安や不信によって突き動かされると、教育は「身過ぎ世過ぎ」に終始してしまいます。そのような教育では、真に主体的な人間は育ちません。

大人たちの責任

いま、大人が子どもたちになすべきことは、彼らの将来を人質にとって彼らを恫喝的に学ばせることではなく、将来に対する希望を感じさせることで彼らの内にある「原動力を生まれさせる」ことではないでしょうか。

大阪大学や京都市立芸術大学の学長も務めた哲学者の鷲田清一氏は、自由に関する田中美知太郎の発言を紹介して、次のような内容を書いています。

自由とは、他人の自由も認めることであり、それは自分の自由を制限できることを意味する。そのような社会的な制限のない自由、すなわち、何をしてもいいということは、何をしても同じということであり、どのみち一緒というこの無関心によって、人の生き方は「気まぐれ」に、社会は「原則のない」ものになる。

鷲田清一「『自由』の意味」(「濃霧の中の方向感覚」所収 晶文社2019年)

ここで注目されるのは、無関心は「何をしても同じ、どのみち一緒」という諦観に裏打ちされているという指摘です。つまり、知識や経験がないから無関心になるのではなく、自分の言動に対する無効力感が無関心を生んでいるということです。ですから、何か新しい知識や技能を子どもに与えれば、「自ずと」関心を持ち、主体的になるということではないのです。

その意味では、改革すべきなのは子どもの側よりも大人の意識の方なのかもしれません。

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